平安時代は、794年に桓武天皇が平安京に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指します。
平安時代は、農業技術があまり発達しておらず、お米はあまり多くありません。そのため、食事にお米があればそれだけでご馳走となり、当時の貴族の食生活でお米を食べることは、社会的地位のひとつでした。食べ物を保存する技術がないことから、保存性を高めるために炊いたお米を乾燥させた強飯(こわいい)を食べていました。強飯に対して、わらかいご飯は姫飯(ひめいい)と呼ばれます。一方、武士や庶民の主食は、お米を食べることはあまりなく、麦やアワ、キビなどの雑穀でした。お腹を満たすために雑穀に水を加え、煮込んでお粥にして食べていました。
平安時代の食事は、主菜として魚を食べることが一般的でした。特に近海の魚やアユなどが主菜の中心となることが多かったようです。魚は遠方から運ばれてくることから、保存性を高めるため、干物や発酵などの加工がなされました。そのほかに鳩やキジなどの鳥類、熊や猪、シカなどの肉類も食卓にのぼりました。魚と同様に保存性を高めるため、乾燥させ干し肉として各地から運ばれてきました。副食となる野菜は、ウリをはじめネギ、にんにく、せり、フキ、ナス、ごぼう、うどなどを食べていたようです。
平安時代には、蒸す、煮る、焼くというような調理法があり、蒸し物、煮物、焼き物、吸い物、和え物などの料理がありました。味付けという習慣はないため、調味料は存在せず、食べる前に塩やしょうゆなどの原型となるもの、お酒、酢などを付けて食べていました。
平安時代
平安時代は、794年に桓武天皇が平安京に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称されています。
平安時代の貴族や武士、庶民の食生活
平安時代といえば華やかな貴族のイメージを連想しますが、この時代お米はまだご馳走として扱われており、主に雑穀が食べられていました。貴族や武士、庶民など階級によっても、食生活は変わってきます。
平安時代は、農業技術があまり発達しておらず、お米はあまり多くありません。そのため、お米は高級品で、食事にお米があればそれだけでご馳走となり、当時の貴族の食生活でお米を食べることは、社会的地位のひとつでした。食べ物を保存する技術がないことから、保存性を高めるために炊いたお米を乾燥させた強飯(こわいい)を食べていました。強飯は、そのままでは固いため、水やお湯をかけて食べることもあります。貴族は、ご馳走である強飯などのお米を主食とし、ご飯は塗り椀に高く盛られて、箸を立てて刺すことが作法とされ、盛り付けたときの見た目の美しさを重視していたようです。なお、ご飯は茶碗にして3杯分の量があり、食べ残してもよいとされていました。また、強飯は持ち運びにも優れることから、携帯食にもなり、お腹が空けば口に入れ、唾液で柔らかくしてお腹を満たしていました。貴族の使用人は、丸めた強飯を食べる習慣もあり、おにぎりの起源とされています。強飯に対して、わらかいご飯は姫飯(ひめいい)と呼ばれます。
一方、武士や庶民の主食は、お米を食べることはあまりなく、麦やアワ、キビなどの雑穀でした。お腹を満たすために雑穀に水を加え、煮込んでお粥にして食べていました。また、大豆や黒豆、小豆などの豆類、山芋やクワイなどのいも類も、雑穀と一緒にお粥にして食べられていました。
平安時代の貴族の食事の回数は、1日2食でした。午前10時頃から正午かけて食事を取り、午後4時頃からも食事を取っていたようです。武士や庶民も、食事の回数は1日2回です。
当時は貴族が脚気になり、死亡することもありました。脚気はビタミンB1不足が引き起こす病気です。武士や庶民が食べていた雑穀は、ビタミンB1が含まれているため、貴族より健康的な生活を送っていたかもしれません。しかし、もともと質素な食事内容のため、十分に食べられることはあまりなく、栄養不足で亡くなることもたくさんありました。
平安時代の主菜と副菜
平安時代の食事は、主菜として魚を食べることが一般的でした。特に近海の魚やアユなどが主菜の中心となることが多かったようです。そのほかに貝類や海藻なども広く食べられていました。
貴族が生活している平安京は海から遠く、主菜となる魚介類は遠方から運ばれてきました。その際に保存性を高めるため、干物や発酵などの加工がなされ、新鮮な魚を食べる機会はあまり多くありませんでした。
食事の主菜は主に魚でしたが、鳩やキジ、スズメなどの鳥類、熊や猪、シカ、タヌキ、キツネなどの肉類も食卓にのぼっていました。当時は仏教が盛んなため、ごく一部の敬虔な仏教徒は一切肉を食べないこともありましたが、貴族は肉も食生活に取り入れており、魚と同様に保存性を高めるため、乾燥させ干し肉として各地から運ばれてきました。当時は、狩猟よりも農業や漁業が中心であったことから、肉よりも魚介類の方が主流で、好んで肉を食べるというよりは、ご馳走としてたしなんでいたようです。また、貴族の私有地である荘園で、牛や馬を放牧することが行われ、乳を煮詰めて粥にしたものなどの乳製品が主菜として食事に取り入れられていました。なお、この時代に鶏卵は食べられていなかったようです。
また、副食となる野菜は、ウリをはじめネギ、にんにく、せり、フキ、ナス、ごぼう、うどなどを食べていたようです。
平安時代の調理法
平安時代には、蒸す、煮る、焼くというような調理法があり、蒸し物、煮物、焼き物、吸い物、和え物などの料理がありました。蒸す調理は強飯、煮る調理法は姫飯や粥、焼く調理法では焼米などに用いられています。庶民ではまだ調理するという感覚がなく、新鮮な魚や肉を食べることも少なかったため、保存のある干物や漬物として取っていたようです。
味付けという習慣はないため、調味料は存在せず、食べる前に塩やしょうゆなどの原型となるもの、お酒、酢などを付けて食べていました。基本的な味は塩と酢で、塩辛いあるいは酸っぱい主菜をご飯と食べるのが、当時の貴族の食生活のようです。今では調味料としても使用されるお酒は、糖度の高いにごり酒でした。
平安時代末期に近づくと、一汁二菜や一汁三菜の食生活も普及してきますが、それでもお粥、汁物、干物、野菜の和え物、漬物などが並ぶ食事で、味付けはなされておらず、塩などをかけて食べていました。
まとめ
平安時代は、794年に桓武天皇が平安京に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指します。
平安時代は、農業技術があまり発達しておらず、お米はあまり多くありません。そのため、食事にお米があればそれだけでご馳走となり、当時の貴族の食生活でお米を食べることは、社会的地位のひとつでした。食べ物を保存する技術がないことから、保存性を高めるために炊いたお米を乾燥させた強飯(こわいい)を食べていました。強飯に対して、わらかいご飯は姫飯(ひめいい)と呼ばれます。一方、武士や庶民の主食は、お米を食べることはあまりなく、麦やアワ、キビなどの雑穀でした。お腹を満たすために雑穀に水を加え、煮込んでお粥にして食べていました。
平安時代の食事は、主菜として魚を食べることが一般的でした。特に近海の魚やアユなどが主菜の中心となることが多かったようです。魚は遠方から運ばれてくることから、保存性を高めるため、干物や発酵などの加工がなされました。そのほかに鳩やキジなどの鳥類、熊や猪、シカなどの肉類も食卓にのぼりました。魚と同様に保存性を高めるため、乾燥させ干し肉として各地から運ばれてきました。副食となる野菜は、ウリをはじめネギ、にんにく、せり、フキ、ナス、ごぼう、うどなどを食べていたようです。
平安時代には、蒸す、煮る、焼くというような調理法があり、蒸し物、煮物、焼き物、吸い物、和え物などの料理がありました。味付けという習慣はないため、調味料は存在せず、食べる前に塩やしょうゆなどの原型となるもの、お酒、酢などを付けて食べていました。