ある酒造メーカーのそこにある危機
朝日酒造は、日本有数の酒どころ新潟県は長岡市にある、伝統的な酒造メーカーです。1830年の創業で、もともと「久保田屋」の屋号から出発し、明治になって「朝日山」と改号しました。「久保田」は、その老舗が1985年に世に送り出した銘酒となります。日本酒に関心のない人でも、その名前は聞いたことがあるに違いありません。限られた酒販店を通して、日本酒を愛する人たちに届けられていますが、いつでもどこでも手に入る製品ではないことから、幻の銘酒ともささやかれています。「久保田」は決して価格の安い酒ではありません。最高級の「萬寿」は、一升瓶(1.8リットル)のメーカー希望小売価格が8,000円以上です。このような高価格であり、時には希望小売り価格にプレミアムを付加して売られていることすらあります。「久保田」は、それだけ高いお金を支払ってでも飲みたいお酒として売上を伸ばしています。
「久保田」が発売された当時、清酒業界では、戦後の生産過剰への反省から、値引き防止のための公的な取引条件に関する協定が存在しましたが、1964年に至って完全な価格自由化が実施されました。それ以降、流通段階での値引き競争が始まり、1980年代半ばまで、日本酒の小売市場では安売り競争が激化の一途をたどっていました。供給過多に陥り、十分に差別化されていない清酒ブランドが乱売されていたのです。かつては、1級酒は大手酒造メーカー、2級酒は地元メーカーといった暗黙の区分がありましたが、大手までが2級酒の安売りブランドを発売するようになっていました。その結果、朝日酒造の売上の9割を占める主力銘柄「朝日山」までもが安売りされるようになっていたのです。
一方、当時の酒類市場にはいくつかの変化が起こっていました。日本酒市場全体は下り坂であったが、80年代に入るころから一部の日本酒ファンが地酒に注目し始めました。これが「幻の日本酒ブーム」で、「八海山」、「越の寒梅」などの銘柄が知られるようになっていました。
朝日酒造は、創立以来、主な市場は新潟県の一部地域に限られていました。価格自由化などを背景に、朝日酒造が60年代に行った努力は、県内の小売店を特約店会として組織化し、値引きや乱売を防止することでした。1980年代まで朝日酒造の主力製品「朝日山」は県内で売上トップを誇っていましたが、「朝日山」は高品質ながらも量産される銘柄であり、必ずしも付加価値の高いブランドとはいえませんでした。また、当時朝日酒造では設備を近代化して、安定した供給体制の構築を進め、長岡駅近辺にアンテナショップを開店するといった、先進的な試みを行っていました。1984年には、新潟県の醸造試験場長を工場長に迎え、値引きされない製品を開発するため、こだわり抜いた酒造りに取り組みました。これが、後の「久保田」開発の根底となる考え方です。
ある酒造メーカーの再興
新製品開発に当たっては、世の中の嗜好の変化が考慮されました。以前は甘く強い酒が好まれましたが、現在ではすっきり飲め、飽きない淡麗な味が好まれます。時代の求める酒造りのため、麹づくりの方法や精米歩合の向上、低温発酵により米のうまみをじっくり引き出すこと、温度管理できる貯蔵タンクの設置により熟成しすぎて香りが悪くなるのを防ぐことを行い、遂に新製品「久保田」が発売されました。その名称は、朝日酒造の創業時の屋号「久保田屋」から取られました。
最高の品質をもって造られた「久保田」ですが、問題は長年の慣習になじんできた酒の小売流通でした。優れたお酒でも、安売り合戦に巻き込まれたら価値はたちまち失われてしまいます。そこで、人間的なお互いに価値を認め合う商売のやり方をすすめました。大手酒造メーカーだけが生き残るような現在の流通の仕組みを疑問視し、朝日酒造のような中堅が生き残るためには、自らの手で流通を変えなければならないというわけです。このために開拓したのは、少数でも自分たちの方針を理解してくれ、かつ売る力のある酒販店でした。そのために卸は通さず、直接小売店に売る仕組みづくりに着手しました。まずは店の選定です。基準は、あくまで人でした。店主の説明能力、地域の中心店としての信頼、店がきれいで整理整頓が行き届いていることが重視されました。
新潟には当時4,000軒の酒販店がありましたが、「久保田」の販売拠点として選ばれたのはわずか170軒です。こうした方針に対して、選ばれなかった酒販店から反発が起きないわけがありません。選ばれた店を発表した翌日から、騒ぎが起きました。選ばれなかった店でも主力製品の「朝日山」は売られていましたが、思いのほかその売上は落ちませんでした。固定ファンがついていたからです。酒が流通の力だけで売れているわけではないことの証左でした。
次の一手は、全国規模でこうした流通のネットワークを広げることでした。「久保田」が売れ始めたのを見て、全国から手紙や電話で販売を希望する小売店が殺到しました。全国の酒販店から「久保田」の販売をゆだねる店を選び出すために、地元新潟の有力酒販店の協力を得、信頼できる酒販店を紹介してもらい、つてを広げていきました。さらに最終的には必ず各酒販店を訪問して、確かめることを忘れませんでした。
「久保田」の場合は安定的な供給ができることが強みでもあり、「久保田」の販売は、受注生産制をとりました。つまりは注文した数量以上は、受け付けないという仕組みです。こうしたシステムが機能するのも、限定され精選された流通があってこそです。こうした限定された酒販店では、「久保田」を販売するお店ならば当然守らなければならない約束ごとがあります。それは、温度は25度を保つ、品質管理に努める、お店のファンクラブをつくる、朝日酒造が企画するイベントに参加する、一定のロットを確保する、支払い期日を守るなどです。こうした約束ごとによって、「久保田」の販売を任せられる日本酒の専門店をつくることに成功しました。
朝日酒造では、「久保田」の販売を支えるブランド力強化のためにさまざまな施策を行ってきました。経営計画づくりをする勉強会や自然環境を守る運動、「久保田」のファンを集めた活動などです。これらは、お酒というモノにまつわる物語をつくり出す試みです。モノにまつわる物語が売れてこそブランド力が生まれ、モノが売れるという考え方です。
社内においても、技能研修などを通じた品質向上の努力がなされています。杜氏たちの伝統技術を、科学的根拠に基づいて伝承し保存することは、酒造メーカーの将来を左右する重要な課題です。朝日酒造は伝統を誇る酒造りでありながら、製造及び販売の両面でその伝統を改革し、さらに発展させる大胆な試みを行っています。日本酒の将来を担うのは、こうした革新的な酒造メーカーなのかもしれません。
まとめ
1964年に完全な価格自由化が実施されて以降、流通段階での値引き競争が始まり、1980年代半ばまで、日本酒の小売市場では安売り競争が激化の一途をたどっていました。供給過多に陥り、十分に差別化されていない清酒ブランドが乱売されていたのです。その結果、朝日酒造の売上の9割を占める主力銘柄「朝日山」までもが安売りされるようになっていたのです。
このような状況下で、まず朝日酒造は人とアイデアを外部から取り入れました。新しい考え方ができる人を外部から採用すると同時に、社員を社内外の人たちと接触させることでイノベーションを促したのです。また、伝統的な取引の仕組みも見直します。日本的な取引の仕組みにおいては、一般的に既存の取引先がまず重視されます。日本酒業界のような保守的な業界にあって、その仕組みを変えるのは極めて困難でしたが、自社の基準をもって新しく組み直すことに成功しました。さらにモノを売るのではなく考え方を売ることを周知徹底します。人はものそのものを買っているのではなく、ものから受ける便益を買っています。朝日酒造はそのことを理解し、日本酒よりも日本酒という文化を売ることを商売の根底に置きました。